☆祝25歳☆ お誕生日によせて

05.11.26

遅ればせながら。
大ちゃん、25歳のお誕生日おめでとうございます。
四半世紀ですよ、四半世紀。長いこと生きてます(なんて表現!?)。

四半世紀を生き抜いた(まだ言うか?)大ちゃんを語るのに、舞台は外せない。
というか、舞台を観ずして大ちゃんは語れない…と、私は思ってる。
初めてプレゾンを観た時の衝撃は未だに忘れられない。この人はいるべき場所にいるのだなっと強く感じた。

あれから数年。いくつもの舞台を経験してきた大ちゃん。
今年だけで見ても、年初の「WEST SIDE STORY」に、待望のプー第二段「幕末蛮風」と、確実に濃い経験を積んでいる。
自分の求めるものと、周りから求められるものとが、ここまでばっちり合う人はなかなかいないように感じる。
いつもふわってしてるのに、舞台となるとまっしぐら。
機会の度に一直線な努力が、観ていてとても気持ち良い。

大ちゃんは、雑誌のインタビューで「公演で完全燃焼してるから、終わった瞬間は燃えカスみたいになってる」と言っている。
「完全燃焼」
…なんて素晴らしいのだろう。
このコメントを読んで、私の頭にとある本の一節が浮かんだ。
学生時代に買って以来、何度も何度も読み返しているノンフィクション。

(沢木耕太郎著 「敗れざる者たち」 『クレイになれなかった男』 より)
※著者がある老相場師と出会い、漫画『あしたのジョー』のラストへ思いをつなげた場面。

「燃えたよ……まっ白に燃えつきた。まっ白な灰に……」
この終わりは殆ど読者にはわかっていたことだ。最後にこの科白がくることも。にもかかわらず読み続けたのは、せめてジョーひとりくらいは”まっ白に燃えつきる”幸せを味わわせてあげたかったから、それを見届けたかったからなのだ。ぼくらには”まっ白に燃えつきる”ことなどありはしない、という前提が、ジョーを支えたある”熱い思い”なのだった。

「あしたのジョー」が流行したのは学園闘争全盛期なので、私はりアルタイム世代ではない。
テレビアニメでもほとんど接点はなかったけれど(絵がリアルで気持ち悪かったし…)、「懐かしの○○」的な番組でこのラストシーンは何度か見たことがある。
生きているのか死んでいるのかわからない描写に、「はっきりしない最後って歯がゆい気がするけど…」なんて思ってた。
でも、この漫画(アニメ)の最後がこんな意味を持っていたとは。この本を読んで初めて知った。
たくさんの読者が自分を投影し、でも自分にはないものだとわかりつつ、羨望の気持ちも込めて彼の最後を見届けた。だからこそ、あの漫画(アニメ)は伝説化しているのだろう。

カシアス内藤というボクサーと彼を取り巻く人々のドラマが描かれた『クレイになれなかった男』の最後は、以下の言葉で結ばれている。

人間は、燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。
望みつづけ、望みつづけ、しかし”いつか”はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも……


ほとんどの人が、心のどこかで「いつか燃えつきたい」と望みつづけているのかもしれない。
でも、そんな瞬間はなかなか来ない。
来たら来たで困るというのもあったりして(笑)。
いずれにしても、人はなかなか燃えつきることはできない。だからこそ、「燃えつきる人間」は憧れの対象になるのだと思う。

大ちゃんが「完全燃焼」という単語をそんな深い意味を込めて言ったとは思わないけれど(苦笑)、自然にそんな言葉を出せるということが素敵だなと感じる。
こういう言葉を日常で使う機会は意外に少ない。言葉の印象が強すぎて、現象や感情が負けてしまうからだ。
でも大ちゃんはとても自然に口にする。
…とても自然に…大ちゃんらしい。

本来、人生は一度きりな訳だから、何度も燃焼して何度も復活して…というのはおかしいかもしれない。
でも、得た役柄・機会毎に命を注入し、その場をイキイキと生き、そして果てる…この繰り返しができることはとても素晴らしいと思う。
そこまでの感覚を味わうためには、辛いことも努力しなければならないこともたくさんあるだろうけれど。
「完全燃焼」をできる場を持てる大ちゃんが、私はとても羨まい。

そんな大ちゃんに、私はこんな言葉を伝えたい。
…天職ですね。
天職に巡り合えた人ほど、美しく見えることはない。
大ちゃんにはこれからも自分がいるべきと思える場所で、輝ける時を過ごして欲しいと思う。